「毎日新聞」の購読者として・・・アナロジーがひどすぎる。

 6月23日の新聞に、<水説>というコラムで、飲食店の「営業の自由」という見出しのもと、まん延防止重点措置における「禁酒」、「禁カラオケ」についての批判?、危惧?する記事があった。

 

 「本来、重点措置の対象地域では緊急宣言時のような休業要請はできないことになっている。しかし実態は違った。なぜか。」

と、危惧?、批判?が始まる。

 まとめれば、政府が大臣告示で「しれっと」「へりくつ」を重ねて、「法律違反」をし、「飲食店に死活的な法の運用」をしている、と憤っている。

 

 まあ、「へりくつ」と言えば「へりくつ」だろうなあ、と私も思う。だが、そうせざるを得ない日本の現状もわかる。

 ロックダウンができない日本、お願いをベースとするしかない現状では、現にある法律を「へりくつ」を駆使してでもお願い以上の効果を狙うしかない。

 これは、コラムの筆者である古賀氏もわかっているのではないだろうか。

 わかっていながら、飲食店の被害をクローズアップして、自分の持論へと導こうとしている。

 

 まず、東京都立大の教授の

「飲食店の人々の気持ちを考えるといたたまれない」

という嘆きを紹介し、その教授が「憲法上の権利として営業の自由が表現の自由などより劣位に置かれるいわれはない」と力説していると紹介している。

 

 経済的自由権としての営業の自由があることがわかるが、なぜ表現の自由と比べられるのか?

 さっぱりわからない。

 たぶん、古賀氏が、どこかで言われた都立大の先生の言葉を、この「禁酒」の事態に関連して引用したための混乱だと思うが・・・、

 もちろん、法律上、権利に優劣はない。

 ただ、憲法にも規定されているが、自由権の場合、濫用や公共の福祉に反する場合は、制限される。

 大雑把だが、コロナの感染者を抑えるという公共の福祉のために、営業の自由を制限することに大きな問題はないと思う。

 

 いや

 「飲食店の人びとの気持ちを考えるといたたまれない」という思いは無視できない、

という感情はわかる。

 だが、

 「医療関係者や保健所の人びとの気持ちを考えるといたたまれない」という思いは無視できないという感情とどう違うのか・・・

 

 政府の煮え切らない対応や、あたふたする言動、「へりくつ」とも勘ぐれる発言等を批判し、危惧する気持ちはわからないでもないが、

 コラムの最後はひどすぎる。

 

 古賀氏自身、

「安直なアナロジーは自戒したいが・・・」

と述べているが、

 アナロジーがひどすぎる。

 

 結局、これを述べたいためにコラムを書いたんだなあ、と納得した。

 

「日米開戦前に総力戦研究所による公式な必敗シミュレーションを顧みなかった「昭和16年夏」の日本と、専門家有志の提言を「自由研究」のごとく扱う「令和3年夏」の五輪ファーストは、きっとどこかでつながっている。

 何より、まともな補給路がないまま前線に送り出された兵士と、不安定な状態に長期間とめ置かれている飲食店に重なるものがあるように思える。」

 

 残念ながら、思えないのだが・・・

 ところで、上記の前半3行の意見は、このコラムの前半の流れからすると、唐突感がぬぐえない。だからこそ、

 結局、これを述べたかったのだな、と納得した。

 

 だが、上記の最後の2行は、アナロジーがひどすぎる。

「まともな補給路がないまま・・・」とは、最悪の作戦といわれるビルマ戦線でのインパール作戦のことを想定していると思われるが、確かに、あの作戦では兵站を無視し精神論を重視した杜撰で、無謀な作戦として知られ、多数の犠牲者を出した。

 しかし、飲食店への自粛要請では、不十分とはいえ兵站(給付金)があり、作戦のねらいも経験を踏まえ明確なものである。

 

でも、飲食店に犠牲を強いているではないか。

確かに、コロナ禍において、様々な犠牲が強いられている。

コロナに感染し、命を失う人、後遺症に悩む人、家族を失う人。

コロナの流行で、長期間勤務を強いられる人、仕事を失う人、収入が減る人、出会えない人などなど・・・。

 

こうした中で、全体としてバランスを考えて犠牲を最小にするために政府が対応をしようとすることは、当たり前のことである。

ましてや、ロックダウンもできず、依頼を中心とした規制しかできない状況で、経験的にコロナに感染しやすい場所を、現行の法律を駆使して規制しようとすることの、

どこが、無謀で最悪の作戦なのだ。

 

安直なアナロジーがひどすぎる。