こんな社会にするためには・・・『人新世の「資本論」』を読んだ 2

J・S・ミルの<停止状態>の社会、齋藤氏のいう<脱成長コミュニズム

このような社会をどのように実現できるのであろうか。

齋藤氏が、脱成長コミュニズムを実現する柱として、まず挙げたのが・・・

 

「使用価値経済への転換」である。

 

氏は以下で、使用価値を軽視し、「価値」重視する資本主義経済を次のように批判している。

 

「・・・生産力の増大は、当然ながら多くのものを生み出すことにつながるが、商品としての<価値>だけを重視する資本主義システムのもとでは、社会の再生産にとって有益であろうが、なかろうが、売れ行きのよいものを中心に生産が行われる。その一方で、社会の再生産にとって、本当に必要なものは軽視される。

・・・コストカット目当てに海外に工場を移転したせいで、先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかったのである。・・・資本の価値増殖を優先して、<使用価値>を犠牲にして結果である。」

 

う~ん・・・マスク不足が「<使用価値>を犠牲にした結果」というのも、どうかなあ・・・とも思ってしまうのだが、

齋藤氏は、「価値」と「使用価値」の対立、という言い回しで同じく資本主義経済を批判している。

ところで

そもそも「価値」と「使用価値」の対立とは、どんな状態を言うのか。

 

商品には「使用価値」と「価値」とのふたつの側面がある。

商品の「使用価値」というと、パソコン、机、パンなど使うときの<ありがたさ>を表したものだと思っている。

この<ありがたさ>は商品によってそれぞれ違い、だから、多様な<ありがたさ>を求めて、我々はそれぞれの商品を買うわけだが、そのときの値段が商品の「価値」を表している。

値段は貨幣の量で表現されており、その意味で貨幣は「価値」の実体のような位置にある。

しかし、貨幣そのものは富ではない。

貨幣の力とはあらゆる<使用価値>(富)と即座に交換できる力である。

つまり

「価値」は、他の<使用価値>(富)と交換できる力を表現している。

ある商品が100円で売れたとすると、その価値は100円相当の他の使用価値を購入(交換)できる力をもっているということである。

 

では、その<交換できる力>とは何であろうか。

まず、なぜ生産物を交換しなければならないかは、かつての自給自足を中心とした共同体が解体し、社会全体に分業体制が展開されているため、我々は商品交換というやり方で、生産物を配分し合っているからだ。

要は、人類は、自分たちで作った総生産物を何らかのかたちで、それぞれに配分しなければ社会を維持できない。その配分の仕方が、共同体内の役割に応じたり、身分に応じたりなど時代時代によって違うが、その配分の割合はその時代の政治的(社会的)関係が反映されていた。

商品流通が主流となった現在は、<交換できる力>によって配分の割合がなされるわけだが、社会的分業体制のもとで、商品を生産する資本と労働という経済関係が反映されている。

「価値」<交換できる力>とは、社会的関係から形成される力である。

 

もちろん、商品に<使用価値>=使ったときの<ありがたさ>があり、それを求めなければ、人は交換(購入)をしない。

だから、もし、マスクが不足すれば人々はマスクを求めるから、資本はマスクを生産するに決まっているのだ。

マスク不足は「<使用価値>を犠牲にした結果」ではなく、コロナ禍以前の日本では<使用価値>の面でも、中国などからの輸入で十分であっただけである。

問題は、次のところだ。

 

「商品としての<価値>だけを重視する資本主義システムのもとでは、社会の再生産にとって有益であろうが、なかろうが、売れ行きのよいものを中心に生産が行われる。その一方で、社会の再生産にとって、本当に必要なものは軽視される。」

 

しかし、「社会の再生産に有益であったら」需要があり、資本は生産するだろう。また、「社会の再生産にとって、本当に必要な物は軽視され」てなどいない。本当に必要であれば資本は生産し、商品流通を通じて社会を再生産していく。

 

では、<価値>増殖を求める資本の何が問題なのだろうか。

それは、<価値>増殖を追求できやすい社会体制に再生産をしながら再編成していくことである。

兵器をなぜ生産するのか。資本にとっては<価値>である利益が上がるからであるが、再生産を繰りかえす中で、兵器産業を形成し、関連する諸産業を育て、雇用も確保されていく。こうして、社会を維持するために有益なものとなっていく。

 

兵器という<使用価値>など、人類にとって必要のないものである。しかし、<価値>追求を中心として資本によって、大量に生産されている。

<価値>を重視する経済の問題点は、<使用価値>を選ぶ力を人間から奪っていることである。

<価値>,そしてその物象体としての貨幣の力とは、即座にあらゆる<使用価値>(富)と交換できる力である。この魔法のような力が手に入れるための<使用価値>の選択の基準は、より<価値>を産むものである。

そこに「人間にとって」とか「健康な生活にとって」とか「環境にとって」などの選択は後回しになる。

 

「こんなに大量の商品はいらない。」「こんな贅沢な商品はいらない。」「本当は必要ないのに思わず買ってしまう商品をつくりすぎている。」

 

我々は<価値>重視の経済の中で、生産すべき<使用価値>を選ぶ力が奪われている。