「毎日新聞」の購読者として・・・アナロジーがひどすぎる。

 6月23日の新聞に、<水説>というコラムで、飲食店の「営業の自由」という見出しのもと、まん延防止重点措置における「禁酒」、「禁カラオケ」についての批判?、危惧?する記事があった。

 

 「本来、重点措置の対象地域では緊急宣言時のような休業要請はできないことになっている。しかし実態は違った。なぜか。」

と、危惧?、批判?が始まる。

 まとめれば、政府が大臣告示で「しれっと」「へりくつ」を重ねて、「法律違反」をし、「飲食店に死活的な法の運用」をしている、と憤っている。

 

 まあ、「へりくつ」と言えば「へりくつ」だろうなあ、と私も思う。だが、そうせざるを得ない日本の現状もわかる。

 ロックダウンができない日本、お願いをベースとするしかない現状では、現にある法律を「へりくつ」を駆使してでもお願い以上の効果を狙うしかない。

 これは、コラムの筆者である古賀氏もわかっているのではないだろうか。

 わかっていながら、飲食店の被害をクローズアップして、自分の持論へと導こうとしている。

 

 まず、東京都立大の教授の

「飲食店の人々の気持ちを考えるといたたまれない」

という嘆きを紹介し、その教授が「憲法上の権利として営業の自由が表現の自由などより劣位に置かれるいわれはない」と力説していると紹介している。

 

 経済的自由権としての営業の自由があることがわかるが、なぜ表現の自由と比べられるのか?

 さっぱりわからない。

 たぶん、古賀氏が、どこかで言われた都立大の先生の言葉を、この「禁酒」の事態に関連して引用したための混乱だと思うが・・・、

 もちろん、法律上、権利に優劣はない。

 ただ、憲法にも規定されているが、自由権の場合、濫用や公共の福祉に反する場合は、制限される。

 大雑把だが、コロナの感染者を抑えるという公共の福祉のために、営業の自由を制限することに大きな問題はないと思う。

 

 いや

 「飲食店の人びとの気持ちを考えるといたたまれない」という思いは無視できない、

という感情はわかる。

 だが、

 「医療関係者や保健所の人びとの気持ちを考えるといたたまれない」という思いは無視できないという感情とどう違うのか・・・

 

 政府の煮え切らない対応や、あたふたする言動、「へりくつ」とも勘ぐれる発言等を批判し、危惧する気持ちはわからないでもないが、

 コラムの最後はひどすぎる。

 

 古賀氏自身、

「安直なアナロジーは自戒したいが・・・」

と述べているが、

 アナロジーがひどすぎる。

 

 結局、これを述べたいためにコラムを書いたんだなあ、と納得した。

 

「日米開戦前に総力戦研究所による公式な必敗シミュレーションを顧みなかった「昭和16年夏」の日本と、専門家有志の提言を「自由研究」のごとく扱う「令和3年夏」の五輪ファーストは、きっとどこかでつながっている。

 何より、まともな補給路がないまま前線に送り出された兵士と、不安定な状態に長期間とめ置かれている飲食店に重なるものがあるように思える。」

 

 残念ながら、思えないのだが・・・

 ところで、上記の前半3行の意見は、このコラムの前半の流れからすると、唐突感がぬぐえない。だからこそ、

 結局、これを述べたかったのだな、と納得した。

 

 だが、上記の最後の2行は、アナロジーがひどすぎる。

「まともな補給路がないまま・・・」とは、最悪の作戦といわれるビルマ戦線でのインパール作戦のことを想定していると思われるが、確かに、あの作戦では兵站を無視し精神論を重視した杜撰で、無謀な作戦として知られ、多数の犠牲者を出した。

 しかし、飲食店への自粛要請では、不十分とはいえ兵站(給付金)があり、作戦のねらいも経験を踏まえ明確なものである。

 

でも、飲食店に犠牲を強いているではないか。

確かに、コロナ禍において、様々な犠牲が強いられている。

コロナに感染し、命を失う人、後遺症に悩む人、家族を失う人。

コロナの流行で、長期間勤務を強いられる人、仕事を失う人、収入が減る人、出会えない人などなど・・・。

 

こうした中で、全体としてバランスを考えて犠牲を最小にするために政府が対応をしようとすることは、当たり前のことである。

ましてや、ロックダウンもできず、依頼を中心とした規制しかできない状況で、経験的にコロナに感染しやすい場所を、現行の法律を駆使して規制しようとすることの、

どこが、無謀で最悪の作戦なのだ。

 

安直なアナロジーがひどすぎる。

曖昧さに耐える

<東京都の小池知事は、何の対策も打っていない。あの人は危機管理ができない人だ>

 

 これは、羽鳥モーニングショーの玉川氏の発言である。

 よくぞ言った!と言うところだが、

 <今の日本は、リーダーの違いで対策に格差が生じている>

とも言っていた。

 たしかに、危機に際して、どんなリーダーを選んでいるかが、各都道府県、政府などその差が顕著に出ている。

 しかし、どちらかといえば、菅総理への歯がゆさからきたコメントとも取れた。

 

  それにしても、

 菅総理も人気がない。

 発言に真剣味がない、胸に届かない。ただ、文章を読んでいるだけだ。などなど・・・

 散々である。

 特にドイツのメルケル首相と比べられて、気の毒になるほどである。

 菅さんは、ああいう人物だ。彼に熱いメッセージを望むのは、無いものねだりである。

 というより、彼が熱く語るところを見たいか、というと、見たくないような・・・

 彼の良い面は違うところにあることは、国民の多くもわかっている。

 あの安倍前総理を支えた頃の官房長官の菅さんは輝いていた。あの熱くない語り口、それがよかった。

 

 基本的に、経験のない危機に面してアタフタとする日本の政治を

 これで良い、と思っている。

 無いものねだりをする国民に対して、リーダーがアタフタと何とか応えようとする姿は、とても健全だと思っている。

 

 それよりも

 なぜ、菅総理が熱く語る姿を見たくないか・・・

 菅さんが、無いものねだりをする国民に対して

 あたかも持っているかのごとく、熱く語り出した時が

 本当の危機である。

 

 いろいろなリーダーがいる。それこそが議会制民主主義の具体的な姿だ。

 当然、危機に面して、リーダーによって対応に格差がでる。

 それでいいのだ。

 われわれは、そうしたリーダーの姿を見ながら、もどかしい曖昧な対応に怒りを持つが、この曖昧さに付き合うことこそ

民主主義の倫理的根幹である。

 

 いろいろな立場や事情がある。事実の情報も多様である。民主政治だからこそその対応に曖昧さが内包されるのは仕方がないことなのだ。

 曖昧さに耐えられず、白黒を要求した時、われわれは主権者の立場を放棄した時である。

 政策に曖昧さを求め、政策の曖昧さに耐えるとは、主権者としての権利であり、義務である。

こんな社会にするためには・・・『人新世の「資本論」』を読んだ 2

J・S・ミルの<停止状態>の社会、齋藤氏のいう<脱成長コミュニズム

このような社会をどのように実現できるのであろうか。

齋藤氏が、脱成長コミュニズムを実現する柱として、まず挙げたのが・・・

 

「使用価値経済への転換」である。

 

氏は以下で、使用価値を軽視し、「価値」重視する資本主義経済を次のように批判している。

 

「・・・生産力の増大は、当然ながら多くのものを生み出すことにつながるが、商品としての<価値>だけを重視する資本主義システムのもとでは、社会の再生産にとって有益であろうが、なかろうが、売れ行きのよいものを中心に生産が行われる。その一方で、社会の再生産にとって、本当に必要なものは軽視される。

・・・コストカット目当てに海外に工場を移転したせいで、先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかったのである。・・・資本の価値増殖を優先して、<使用価値>を犠牲にして結果である。」

 

う~ん・・・マスク不足が「<使用価値>を犠牲にした結果」というのも、どうかなあ・・・とも思ってしまうのだが、

齋藤氏は、「価値」と「使用価値」の対立、という言い回しで同じく資本主義経済を批判している。

ところで

そもそも「価値」と「使用価値」の対立とは、どんな状態を言うのか。

 

商品には「使用価値」と「価値」とのふたつの側面がある。

商品の「使用価値」というと、パソコン、机、パンなど使うときの<ありがたさ>を表したものだと思っている。

この<ありがたさ>は商品によってそれぞれ違い、だから、多様な<ありがたさ>を求めて、我々はそれぞれの商品を買うわけだが、そのときの値段が商品の「価値」を表している。

値段は貨幣の量で表現されており、その意味で貨幣は「価値」の実体のような位置にある。

しかし、貨幣そのものは富ではない。

貨幣の力とはあらゆる<使用価値>(富)と即座に交換できる力である。

つまり

「価値」は、他の<使用価値>(富)と交換できる力を表現している。

ある商品が100円で売れたとすると、その価値は100円相当の他の使用価値を購入(交換)できる力をもっているということである。

 

では、その<交換できる力>とは何であろうか。

まず、なぜ生産物を交換しなければならないかは、かつての自給自足を中心とした共同体が解体し、社会全体に分業体制が展開されているため、我々は商品交換というやり方で、生産物を配分し合っているからだ。

要は、人類は、自分たちで作った総生産物を何らかのかたちで、それぞれに配分しなければ社会を維持できない。その配分の仕方が、共同体内の役割に応じたり、身分に応じたりなど時代時代によって違うが、その配分の割合はその時代の政治的(社会的)関係が反映されていた。

商品流通が主流となった現在は、<交換できる力>によって配分の割合がなされるわけだが、社会的分業体制のもとで、商品を生産する資本と労働という経済関係が反映されている。

「価値」<交換できる力>とは、社会的関係から形成される力である。

 

もちろん、商品に<使用価値>=使ったときの<ありがたさ>があり、それを求めなければ、人は交換(購入)をしない。

だから、もし、マスクが不足すれば人々はマスクを求めるから、資本はマスクを生産するに決まっているのだ。

マスク不足は「<使用価値>を犠牲にした結果」ではなく、コロナ禍以前の日本では<使用価値>の面でも、中国などからの輸入で十分であっただけである。

問題は、次のところだ。

 

「商品としての<価値>だけを重視する資本主義システムのもとでは、社会の再生産にとって有益であろうが、なかろうが、売れ行きのよいものを中心に生産が行われる。その一方で、社会の再生産にとって、本当に必要なものは軽視される。」

 

しかし、「社会の再生産に有益であったら」需要があり、資本は生産するだろう。また、「社会の再生産にとって、本当に必要な物は軽視され」てなどいない。本当に必要であれば資本は生産し、商品流通を通じて社会を再生産していく。

 

では、<価値>増殖を求める資本の何が問題なのだろうか。

それは、<価値>増殖を追求できやすい社会体制に再生産をしながら再編成していくことである。

兵器をなぜ生産するのか。資本にとっては<価値>である利益が上がるからであるが、再生産を繰りかえす中で、兵器産業を形成し、関連する諸産業を育て、雇用も確保されていく。こうして、社会を維持するために有益なものとなっていく。

 

兵器という<使用価値>など、人類にとって必要のないものである。しかし、<価値>追求を中心として資本によって、大量に生産されている。

<価値>を重視する経済の問題点は、<使用価値>を選ぶ力を人間から奪っていることである。

<価値>,そしてその物象体としての貨幣の力とは、即座にあらゆる<使用価値>(富)と交換できる力である。この魔法のような力が手に入れるための<使用価値>の選択の基準は、より<価値>を産むものである。

そこに「人間にとって」とか「健康な生活にとって」とか「環境にとって」などの選択は後回しになる。

 

「こんなに大量の商品はいらない。」「こんな贅沢な商品はいらない。」「本当は必要ないのに思わず買ってしまう商品をつくりすぎている。」

 

我々は<価値>重視の経済の中で、生産すべき<使用価値>を選ぶ力が奪われている。

「毎日新聞」の購読者として・・・望むこと

就職して、「毎日新聞」を購読するようになった。

 「読売」とか「朝日」など、もちろん熱心に勧誘に来たが、断固として「毎日」にした。

 「毎日新聞」の立ち位置が気に入ったからだ。

 「朝日」ほどリベラル(?)ではないが、少しリベラル。

 それがよかった。

 そして、もう何十年と購読している。

 しかし、コロナ禍の報道で、「?!」と感じた記事があったので、書き記して置きたい。

 

 それは、5月2日と3日の記事だ。

 大阪のコロナ対策の記事で、大阪府の対策と吉村知事の発言を時系列で検証する内容であった。新聞、ジャーナリストとして大いにやってほしい報道であり、今後につながるものとして評価したい。

 しかし、ということは、新聞等メディアの報道や記事の内容も、時系列での検証が必要ではないだろうか。

 府や知事は公的な存在である。一方、新聞等メディアも一般人にすれば、十分公的な存在である。

 

 そこで、新聞記事を検証してみた。

 まず5月2日の記事から

 

 見出しは「再拡大兆候軽視3.1通知」とあり、次の内容であった。

「3月1日、当時の新規感染者数は56人にまで減っていたが、その頃既にリバウンドの兆候があった。・・・一方、宣言解除に伴って医療体制は縮小された。3月1日、府は重症病症の確保数を<215床>から3割減の<150床>まで縮小することを各病院に通知した。当時、重症病症使用率が府の警戒基準(45%)を下回る約40%まで下がっていたこと・・・などが理由だが、この判断が後に大きな影を落とす。

感染拡大で1ヶ月後の31日には各病院に増床を要請したが、一般医療に使っている病症をコロナ用に戻すのは容易でなかった。」

 

 要するに、3月1日の吉村知事の通知が間違っていたと指摘したいわけであるが、3月1日段階で感染者数が56人である。

 それは安心するでしょう。

 今の東京の緊急事態宣言でも解除の目安として厳しい人でも、感染者が100人きったら良いと言っているじゃないですか。

 56人段階で、少し元に戻そうとするのは病院の現状を考えれば当然ではないか。

 事実、「毎日新聞」も、4月11日の記事で、日本の病院の現場のやりくりの大変さを指摘していたではないか。また、4月15日の記事での現場の医師は

 

「年間6000件に上る救急搬送の受入にも影響が及ぶ可能性があり、重症のコロナ患者にも、救急患者にも集中治療室が必要だ。どちらの患者を救えば良いのか、苦悩を深めている」

 

と述べており、その医療現場を知れば、56人までコロナ患者が減れば、一部、一般医療に戻そうとするのは当然の判断だと、この記事を書いた記者は思いませんか?

いや、変異株の大変さを軽視したのだ、という意見もある。しかし、同じ5月2日の記事にこんな内容がある。

 

「日本国内では専門家の間でも感染力の強さについて評価が分かれており・・・、3月に入り、若年層への感染力の強さ、重症化のしやすさ、症状悪化までの期間が短いことなどの特徴が判明。」

 

ということは、3月1日段階では、まだはっきりしていなかったわけだ。

 以上のような状態で、3月1日の通知が誤りだったように示唆する記事は、結果がわかってからの、後出しジャンケンである。そう感じてしまうのは私だけだろうか・・・。

 

 5月3日の記事は、残念なことに、さらにひどい!!

 

見出しは、<吉村知事「マスク会食」提唱後、人手増> <経済傾斜こだわり

その内容を簡単にまとめれば・・・

「飲食店のオーナーが知事に恨み節を言う。それは2月19日に<マスク会食>を提唱したからだ。しかし、不安視する専門家も少なくない。「マスク会食なんか勧めたら、会食していいと言っていると誤解される」、その不安は現実のものとなる、解除後に飲食店の来客数が51%から65%まで回復し、一方、府内の感染者数もじわじわと増え続けた。」

 

 この記事を書いた記者は、文章中に「知事は経済への意識が強い」という内容を4回も記述しており、見出しからわかるように、よほどその姿勢が気に入らないようである。わざわざ、飲食店のオーナーまで引っ張り出して、文句を言わせている。

 もちろん、飲食店が振り回されているのは、大阪だけではないことは言うまでもない。

 それにしても、<マスク会食>を言ったから、飲食店の来客数が51%から65%まで回復した?

 だいたい、若者がテレビを熱心に見ているとも思えないし、総理や小池知事、吉村知事の発言などはっきり言ってそんなに影響がないことは、若者の飲食街などの行動を見ればわかるではない。

 どう読んでも、宣言を解除したから来客数が回復したとしか考えられないのは、私だけだろうか。

 さて、しかし、「ひどい!!」のは、以下のことだ。

 毎日新聞の4月6日の記事に、こうある。

 

見出し「新たな規範に」、その内容は

「<まん延防止措置>について、専門家は効果を上げることの難しさに加え、措置を機に<マスク会食>などを新たな社会規範とする必要性を訴えている。・・・関西福祉大学勝田吉彰教授は、新たなメッセージを出すことに意味がある、何も対策を取らなければ、医療崩壊へまっしぐら、といい、大阪大の大竹文雄教授は、<マスク会食>を新たな社会規範にすることを提案。面倒かもしれないが、慣れてしまえばそれがマナーになる、という。

 

 一体<毎日新聞>はどうなっているんだ。4月6日には<マスク会食>をあらたな社会規範として紹介しておきながら、5月3日には、<マスク会食>なんか誤解のもとだ、という記事を書く。しかも、吉村知事の<マスク会食>発言は、2月19日だ。

 たぶん、書いた記者が違うのだろうが、読む購読者は同じだ。

 結論はこうだ。

 吉村知事に難癖をつけたいから、<マスク会食>をあげつらったんだ。そうとしか、5月3日の記事は読めない。

 

 この記事の問題点はまだある。

 

「吉村知事は大阪市内の飲食店での感染対策をチェックするため、4月5日に<見回り隊>を発足させた。府市町村職員と業者がペアを組む600人態勢とした。ある府職員は<医療崩壊が直面するなか、そこまで人をつぎ込むべき政策なのか。人材の無駄遣いだ」とし、大阪市職員の一人は<現場を知らず、思いつきで先走る。功を急ぎすぎ、裸の王様になっている>とこぼす。」

 

 この記者の吉村知事嫌いも、相当なものだと感じるが、この<見回り隊>の政策は思いつきではないことは、TVのワイドショーでも紹介されている。山梨県の優れた先行例を参考にしたものだ。ただ、大阪という大都市にあうように修正なり、対応の工夫がいるだろうが・・・

 ところで、4月14日の毎日新聞に、こんな記事が載っていた。

 

見出し<2000人専門家が懸念> 記事の内容は

大阪府で新規感染者が1000人を超え、新たなステージに入った。専門家は感染力が強いとされる変異株の影響が大きいと分析し、5日に始まったまん延防止措置の効果が弱ければ、感染者が2000人まで拡大する可能性を指摘している。・・・ただ、実際は感染者の増加スピードは徐々に落ちており、一週間の累計感染者数の前週比は3月末から4月初めにかけて2倍を超えていたが、13日には1.5倍にまで下がっている。高鳥毛教授は<飲食店への見回りなどを始めたことが功を奏している>と見る。・・・また、同教授は<宣言に頼りすぎるのは良くない。保健所の監視員が飲食店に感染対策を指導するなど、きめ細かく質の高い対策を行うべきだ。」

 

 5月3日の記事と4月14日の記事を比べたとき、毎日新聞はどう判断し、何を購読者に分かり易く報道しようとしているのか、モヤモヤが増すばかりだ。

 飲食店への見回りについては、実際に現場の店の人の苦情や一部見守り隊メンバーのいい加減さなどの情報があることは、私も知っている。

 しかし、まん延防止措置にしろ、緊急事態宣言にしろ、お願いや依頼ばかりでは自粛疲れもあり、効果はどんどん薄れている。だから、何か実効性のあるものを求めてやっていることも知っている。

 

 

 

 5月3日の記事を書いた記者は、府の職員や市の職員に取材をしているが、職員にすれば、見回り隊の政策など、<余計なことを>といい迷惑なことだろう。

 <人材の無駄遣い><現場を知らない>

 職員がやりたくなくて文句を言うときの、常套句ではないか。

 記者は、それほど評判の良くない<見守り隊>政策にさらに追い打ちをかけるように取材をもとに記事にしたのだろうが、なぜ、職員に

「では、あなたはどういう政策がいいと思いますか」「どう実行したら効果がでると思いますか」

と取材を深めなかったのか。

 

 失敗の理由だけ集める取材は、うんざりしている。新しい取り組みを何とか実効性があるようにする情報や提言の取材が、ほしい。

こんな社会にするためには・・・・『人新世の「資本論」』を読んだ。

 『人新世の「資本論」』(斎藤幸平 著)を読んだ。

 自分の関心のど真ん中の記述もあれば、目から鱗の話題もある。何より今後どう考えていけばよいかの指針が示されており、久しぶりにワクワクして読むことができた。

 

 地球環境問題を解決するためには、資本主義ではない脱成長の経済モデルを目指さなければならないと提言した後、

 ・人工的な「希少性」をキーワードとした、欠乏を生む資本主義

 ・「価値」と「使用価値」の対立

など、刺激的な見出しで、資本主義の問題点を挙げ、その克服の取り組むいくつかの考え方に触れているが、その取り組みの限界点を指摘した後

 こう、強く述べている。

 

「あえて挑発的にいえば、マルクスにとって、分配や消費のあり方を変革したり、政治制度や大衆の価値観を変容させたりすることは、二次的なものでしかない。一般に共産主義といえば、私的所有の廃止と国有化のことだという誤解がはびこっているが、所有のあり方さえも、根本問題ではない。

肝腎なのは、労働と生産の変革なのだ。・・・」

 

 「肝腎なのは、労働と生産の変革なのだ」

 これは、「価値」と「使用価値」の対立と関連し、本当に資本主義を検討し、克服を考える場合、避けて通れない課題である。

 

 「価値」は、「使用価値」のように物に表現されていないためわかりにくい。

 もちろん、「使用価値」は消費者が使用(消費)して、はじめて実現されるものだが、その物を見たとき、どう使えば実現できるかは、ものに表現されている。

 しかし、「価値」は、市場において、その異なる「使用価値」同士(商品)が交換されたとき、表現される。

 具体的には貨幣の量として示される。

が、「価値」とは何か。今一つわかりにくい。

 マルクスは、人間の抽象的労働がその価値のベースとなり、労働時間がその量を規定している、としているが、これもいろいろな意見があるそうだ。

 

 ところで、商品の「価値」が、「価値」として人間の経済活動を逆に支配するようになったのは、資本主義になってからのことである。

 資本が生産・販売現場を支配し、価値増殖を追求する経済活動が社会において中心となって、「使用価値」より「価値」―「価値」増殖が優先されるようになった。

 そして工場などにおける生産様式や労働形態、流通における情報管理や宣伝、販売方法も「価値」増殖を中心として編制されていった。

 もちろん、「使用価値」のない商品などないし、「価値」もない。なぜなら、「使用価値」がなければ交換もされないからである。

 しかし、資本主義では、商品の「使用価値」面を犠牲にしてでも、より利益が得られる「価値」面が優先される状態となり、あたかも対立しているように現象する。

 

 生産と労働の変革とは、資本によって「価値」増殖を目的として編制された生産・販売体制の変革である。

 変革をうながす社会像として、著者は、「脱成長コミュニズム」をあげる。

 脱成長とは、GDPを減らすことを主目的にするものではない、と言う。それは結局GDPの数値に囚われていることの裏返しにすぎないからだ。そして、次のように言う。

 

「資本主義は経済成長が人々の繁栄をもたらすとして、私たちの社会はGDPの増大を目指してきた。だが、万人にとっての繁栄はいまだ訪れていない。

だから、アンチテーゼとしての脱成長は、GDPに必ずしも反映されない、人々の繁栄や生活の質に重きを置く。量(成長)から質(発展)への転換だ。」

 

 だから、GDPに反映される「価値」を追求するのではなく、生活の質につながる「使用価値」の重視へとつながるのだ。

 

 コミュニズムとは、<コモン>をとりもどす運動であると言う。

 <コモン>のポイントは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する点である。

著者は、この「脱成長コミュニズム」をめざす動きとして「コモン」というキーワードをもとにいくつかの具体例をあげている。

 生産現場での変革としては、

 

「生産手段そのものも<コモン>にしていく必要がある。資本家や株主なしに、労働者たちが共同出資して、生産手段を共同所有し、共同管理する組織が、<ワーカーズ・コープ(労働者共同組合)>である。」

「資本による包摂を受け入れた既存の労働組合とは対照的に、ワーカーズ・コープは生産関係そのものを変更することを目指す。労働者たちが、労働の現場に民主主義を持ち込むことで競争を抑制し、開発、教育や配置換えについての意志決定を自分たちで行う。事業を継続するための利益獲得を目ざしはするものの、市場での短期的な利潤最大化や投機活動に投資を左右されない。」

 

 そして、その実例として、スペインの共同組合や、日本での介護・保育、林業などの分野での活動などが紹介されている。

 さらに、こうしたコモンの領域、活動範囲が広がれば、「使用価値」は減らないが、資本による商品化された領域が減り、GDPは減少していくだろう。脱成長である、と言う。

 

 しかし、資本はそれまで待ってくれるだろうか。気になる点が2つある。

 1つは、利益がでる事業や利益のでそうな事業は、資本が手放さないし、資本が放っておく訳がない、と思うのだ。

 現在あるワーカーズ・コープは、資本としてのやり方としては旨みのない事業分野が中心ではないだろうか。

 2つ目としては、ワーカーズ・コープも資本主義経済で事業をやる以上、当然利潤を上げなければ存続できない。

 このことは著者も触れているが、もし、この事業を広め、または拡大することを目指せば、ミイラ取りがミイラになってしまうのではないか・・・と危惧するのだ。

 

 つまり、社会の大部分が、脱成長を受入れ、資本主義から決別する途を決意しなければ、ワーカーズ・コープなどの活動も広がらないだろう。

 そこで著者は、地球環境を守る、特に地球温暖化を阻止する「気候正義」を梃子として、この脱成長とそのための資本主義からコミュニズムへの経済モデル変化を促すことを期待し、経済・政治・環境の三位一体の刷新をこう訴えている。

 

「民主主義の刷新はかつてないほど重要になっている。気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせないからである。

その際、専門家や政治家たちのトップダウン型の統治形態に陥らないようにするためには、市民参加の主体性を育み、市民の意見が国家に反映されるプロセスを制度化していくことが欠かせない。

そのためには、国家の力を前提にしながらも、<コモン>の領域を広げていくことによって、民主主義の議会を外に広げ、生産の次元へと拡張していく必要がある。協同組合、社会的所有や「<市民>営化」がその一例だ・・・」

 

 <停止状態>を望んだJ・S・ミルは、人々の公益への意識、欲望への抑制意識に期待した。

 それに比べれば、著者の提言ははるかに具体的だが・・・

 私も、著者の求める社会に大賛成であるが・・・

 

 つぎのことをどうすすめたらいいか、考えねばならない。

・著者も危惧しているように、資本は気候変動の危機でさえも、利潤追求の機会ととらえるだろう。

このコミュニズムへの動きに、資本の「価値」増殖の動きをすすめたり、利益を得ている人たちは同調できるのだろうか。どう納得、あるいは諦めてもらうか。

かえって、市民に対して積極的な宣伝活動を展開し、市民の意見がまとまらないようになるのを、どう防ぐか。

・市民(私も含めて)は主人公、市民の意見こそ正しい、と市民を信頼、信用されても困る人々は大勢いるのではないだろうか。

 困って、考えるのも嫌になったとき、カリスマを求めるのも市民だ。

 多くの市民(私も含めて)は、<曖昧さ>に堪えられない。白黒はっきり付けたいのだ。 強いリーダーを望んだり、一方で嫌なものは嫌と譲らなかったりと、市民が主人公になった時の困難さが気を重くする。

 妥協の途を根気よく巡っていく力は、残念ながら政治家が訓練されている。これも残念だが、野党より自民党がそうだ。

 かつての民主党政権のとき、すごく期待したが、落胆度もひどかった。党内で妥協できずまとまらなかったからだ。

 自民党の隠蔽体質は大嫌いだが、党内で妥協調整してまとめる力は強い。一度決まれば反対意見を封じ込める。そのまとめ方に批判もあるが・・・ところで市民が参加するとして自民党以上に正しく、誰でも納得するまとめ方ができるか・・・途は遠い。

 

 もしかすると、脱成長コミュニズム、または<定常状態>になるためには、J・S・ミルではないが、何かみんなが受け入れる価値観、信仰に近い考えがいる??

 資本主義をすすめたプロテスタンティズムのような・・・

こんな社会にするためには・・・どうすれば? 2

 J・S・ミルの『経済学原理』を見た。岩波文庫版で5冊もあったので・・・読むというより、眺めたといった方が適切かもしれない。

 いわゆる<定常状態>が記述されていたのは、第4分冊の第6章で、<停止状態>という見出しであった。

 以下抜粋。(なお、翻訳の文体が古く堅苦しいところもあるので、少し文を変えて紹介します。)

 

「一体、社会は、その産業的進歩によって、どのような究極点へ向かっているか。この進歩が停止した場合、それは人類をどのような状態にするのか・・・

そもそも富の増加というものが無制限のものではないこと、そして、経済学者たちが進歩的状態と名付けているところのものの終点には停止状態が存在し、・・・前進の途上における一歩一歩はこれへの接近である・・・」

 

 ミルのこの著書は、イギリスにおいて、1848年に出版され、その後49年、52年、57年、62年、65年、71年と7回版を重ねている。ちょうど、イギリス国内では他国に先立って資本主義経済の隆盛がみられ、ヴィクトリア女王が君臨し、世界帝国として7つの海を支配していた頃だ。

もう絶好調で、未来がバラ色で染まっている時に、この記述である。

 

「富の増加は無制限のものではないこと」

「進歩的状態の・・・終点には停止状態が存在し・・・」

 

さらに、

 

「私は、資本および富の停止状態を、・・・あらわな嫌悪の情をもって、見るものではない。むしろ、それは大体において、今日のわれわれの状態より非常に大きな改善となるであろう(と、考えている)」

 

と、<停止状態>を肯定的に述べたのち、次のような驚くべき提言を述べている。

 

「技術が向上をつづけ、資本が増加をつづけると仮定すれば、・・・(このまま、成長しつづけ、人口も増加しつづけ、その結果)・・・自然の自発的活動のためにまったく余地が残されていない世界を想像することは、決して大きな満足を感じさせるものではない。

(たとえば)人間のための食糧を栽培できる土地は、すべて耕作され、花の咲く未墾地や天然の牧場はすべて鋤き起こされ、人間が使用するために飼われている鳥や獣以外の動物は根絶され、・・・野生の灌木や野の花が農業改良の名において雑草として根絶され、自然のままの土地がほとんどない。―このような世界を想像することは、決して大きな満足を与えるものではない。

もしも地球において、その楽しさの多くを与えているもろもろの事物を、富と人口との無制限なる増加が、地球からことごとく取り除いてしまい、そのために地球がその楽しさの大部分のものを失ってしまわなければならぬとすれば、しかもその目的がただ単に地球をしてより大なる人口を養うことだけであるとすれば、私は後世の人たちのために切望する、彼らが、必要に強いられて停止状態に入る、遙か前に、自ら好んで停止状態に入ることを。」

 

 この文章を見た時には、誰もが思わず口走ったはずだ。

 これって今のことじゃないの?

 これって今の我々の問題、そのものじゃないか。

 J・S・ミル! 恐るべし!

 なお、人口の増加にこだわっているのは、マルサスの『人口論』の影響であるが、いずれにしろ、人間活動の拡大が地球の資産を獲り尽くし、消失してしまうのではないか、という今につながる問題意識を明確に打ち出している。

 資本主義の問題点の核心を、明確に把握し、さらにこう提言している。

「・・・私は後世の人たちのために切望する、彼らが、必要に強いられて停止状態に入る、遙か前に、自ら好んで停止状態に入ることを。」

 

 これは、およそ170年前の提言である。

 我々は、「自ら好んで停止状態に入ることを」選択できるのだろうか。

 否!!

 我々は、「強いられて停止状態に入る」ことが求められている。

 SDGs、持続可能な開発目標。

 なぜ開発?持続可能な発展?

 J・S・ミルの<定常(停止)状態>への提言の方が、私はイメージできるし、社会システムへの見直しを促す力がある。

 

 J・S・ミルの『経済学原論』の問題点。

 我々にとって、根本的な問題は、ミルは19世紀のイギリスの現実から思考していることである。しかたがないことであるが、当時のイギリスの資本主義経済状態であれば、株式会社の発展も、重工業を中心とした金融巨大資本もまだ存在していない段階であるから、<停止状態>が構想しやすい段階であった。

 このことは、第7章の<労働階級の将来の見通しについて>において、資本家と熟練労働者を中心とした人々との利潤を分け合う協力関係や、労働組合による企業経営の例など、現在から見れば、牧歌的な事例を挙げている点でも言える。

 そして、何より、イギリスの楽観的な発展への自信、そして、その結果の停止状態で予想している質的な豊かな生活の享受は、植民地としてのインドや南アフリカアメリカ南部の奴隷による農業経営などによって支えられている事実に触れられていないことである。

 

 しかし、そうだとしても、ミルの提言は

 現在の私たちこそ真剣に考えなければならない、ということは確かだ。

こんな社会にするためには・・・どうすれば?

『経済学の堕落を撃つ』(中山智香子 著)を読んでいたら、こんな文があった。

以下抜粋。

「J・S・ミルは『経済学原理』において、産業的進歩と蓄積の時代の後に到来する「定常状態」を非常に肯定的にとらえていた。

定常状態においては、誰も生存競争のために他人を蹴落としたりせず、誰かが貧困に陥ることもなく、また誰も、一生かかっても使い切れないほどの富をため込むこともない。誰もが現状、得られている快適さを保ち、それが劣化しないようにしっかりと暮らしていく。・・・そこでは過剰に慎重な節約を行う必要を求められないので、誰も巨万の富をもってないが、精神にも身体にも十分な楽しみを誰もが享受することができる。したがって定常状態においても人々は、質的な向上を求めてよい。さまざまな精神的文化の発展や生活の技法の改善、今日の言葉で言うならクオリティ・オブ・ライフ、つまり暮らしの質の向上は、大いに求められてよいとしたのである。」

 

 いわゆる<社会主義の夢>が崩壊してから、ちょうど30年になる。―いや、崩壊したのはソ連式の社会主義であって、<社会主義あるいは共産主義の夢>は生きている、という人もいるが・・・

 30年たって、これだけは言える。

 「資本主義は限界ではないだろうか。」と考える人が、増えていることだ。

 私もその一人だ。

 では、「資本主義でない、次の社会とは、どんな社会?」と問われると、困ってしまうのが現状であった。

 しかし、J・S・ミルが言う「定常状態」の社会はいい。

 <社会主義共産主義>社会とは云々~、と言われるよりイメージしやすい。

 

 この「定常状態」の社会を目指すにはどうしたいいのだろう。

 少なくとも経済成長を求める経済システムはやめなければならない。では、資本主義経済のまま、これが実現できるのだろうか。

 資本主義経済は、あらゆるものが商品として取り引きされ、資本のもとで生産と販売が利潤追求のためになされる経済活動が主流となっている状態である。

 資本は利益拡大のために運動する。利益拡大を求めないとしたら、それは資本ではない。

 としたら、資本主義経済は、経済成長を求めることをやめられない。

 

 また、「誰も生存競争のために他人を蹴落としたりせず、誰かが貧困に陥ることもなく・・・」とあるが、

 現在の世界の食料生産は、世界の人口を支えるだけの生産量があるらしい。理屈でいけば、平等に食料を供給すれば、「生存競争のために他人を蹴落としたりせず」にすむはずである。

 食料の供給が偏っているのである。

 そのような供給システムとして、結果的に意識的に、多くは無意識に形成してきてしまった。

 わかるように、日本では「デカ盛り」が話題になるほど食料が供給され、にもかかわらず、「食品ロス」が叫ばれ、一方ではアフリカのサヘル地域をはじめ、8億人ほどがぎりぎりの栄養状態にある。

 人間社会の分業が進みすぎているのだ。内部では共同体を解体するほど進み、外部では世界を覆うほど進んでいる。

 おかげで、あらゆるものを購入しなければならない。としたら、金持ちに商品が集中するのは目に見えている。

 この分業システムをどうすればいいのか。いまさら後に戻ることは難しい。世界的に展開された分業システムを誰がつくったか。

 先進国を中心とした巨大資本だ。そして、巨大資本に利益を提供している我々の生活スタイルだ。

 資本は、この分業システムを駆使して、利益を追求する。そして、利益を得られそうな所に商品は集中し、そうでない所では、不足する。

 

 分業はなくした方がいいのだろうか。しかし、人間はみんなで活動するとき、いやでも分業をする。

 やはり、資本主義の問題だ。

 

そうだと言えるが、その後が続かない。