こんな社会にするためには・・・・『人新世の「資本論」』を読んだ。

 『人新世の「資本論」』(斎藤幸平 著)を読んだ。

 自分の関心のど真ん中の記述もあれば、目から鱗の話題もある。何より今後どう考えていけばよいかの指針が示されており、久しぶりにワクワクして読むことができた。

 

 地球環境問題を解決するためには、資本主義ではない脱成長の経済モデルを目指さなければならないと提言した後、

 ・人工的な「希少性」をキーワードとした、欠乏を生む資本主義

 ・「価値」と「使用価値」の対立

など、刺激的な見出しで、資本主義の問題点を挙げ、その克服の取り組むいくつかの考え方に触れているが、その取り組みの限界点を指摘した後

 こう、強く述べている。

 

「あえて挑発的にいえば、マルクスにとって、分配や消費のあり方を変革したり、政治制度や大衆の価値観を変容させたりすることは、二次的なものでしかない。一般に共産主義といえば、私的所有の廃止と国有化のことだという誤解がはびこっているが、所有のあり方さえも、根本問題ではない。

肝腎なのは、労働と生産の変革なのだ。・・・」

 

 「肝腎なのは、労働と生産の変革なのだ」

 これは、「価値」と「使用価値」の対立と関連し、本当に資本主義を検討し、克服を考える場合、避けて通れない課題である。

 

 「価値」は、「使用価値」のように物に表現されていないためわかりにくい。

 もちろん、「使用価値」は消費者が使用(消費)して、はじめて実現されるものだが、その物を見たとき、どう使えば実現できるかは、ものに表現されている。

 しかし、「価値」は、市場において、その異なる「使用価値」同士(商品)が交換されたとき、表現される。

 具体的には貨幣の量として示される。

が、「価値」とは何か。今一つわかりにくい。

 マルクスは、人間の抽象的労働がその価値のベースとなり、労働時間がその量を規定している、としているが、これもいろいろな意見があるそうだ。

 

 ところで、商品の「価値」が、「価値」として人間の経済活動を逆に支配するようになったのは、資本主義になってからのことである。

 資本が生産・販売現場を支配し、価値増殖を追求する経済活動が社会において中心となって、「使用価値」より「価値」―「価値」増殖が優先されるようになった。

 そして工場などにおける生産様式や労働形態、流通における情報管理や宣伝、販売方法も「価値」増殖を中心として編制されていった。

 もちろん、「使用価値」のない商品などないし、「価値」もない。なぜなら、「使用価値」がなければ交換もされないからである。

 しかし、資本主義では、商品の「使用価値」面を犠牲にしてでも、より利益が得られる「価値」面が優先される状態となり、あたかも対立しているように現象する。

 

 生産と労働の変革とは、資本によって「価値」増殖を目的として編制された生産・販売体制の変革である。

 変革をうながす社会像として、著者は、「脱成長コミュニズム」をあげる。

 脱成長とは、GDPを減らすことを主目的にするものではない、と言う。それは結局GDPの数値に囚われていることの裏返しにすぎないからだ。そして、次のように言う。

 

「資本主義は経済成長が人々の繁栄をもたらすとして、私たちの社会はGDPの増大を目指してきた。だが、万人にとっての繁栄はいまだ訪れていない。

だから、アンチテーゼとしての脱成長は、GDPに必ずしも反映されない、人々の繁栄や生活の質に重きを置く。量(成長)から質(発展)への転換だ。」

 

 だから、GDPに反映される「価値」を追求するのではなく、生活の質につながる「使用価値」の重視へとつながるのだ。

 

 コミュニズムとは、<コモン>をとりもどす運動であると言う。

 <コモン>のポイントは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する点である。

著者は、この「脱成長コミュニズム」をめざす動きとして「コモン」というキーワードをもとにいくつかの具体例をあげている。

 生産現場での変革としては、

 

「生産手段そのものも<コモン>にしていく必要がある。資本家や株主なしに、労働者たちが共同出資して、生産手段を共同所有し、共同管理する組織が、<ワーカーズ・コープ(労働者共同組合)>である。」

「資本による包摂を受け入れた既存の労働組合とは対照的に、ワーカーズ・コープは生産関係そのものを変更することを目指す。労働者たちが、労働の現場に民主主義を持ち込むことで競争を抑制し、開発、教育や配置換えについての意志決定を自分たちで行う。事業を継続するための利益獲得を目ざしはするものの、市場での短期的な利潤最大化や投機活動に投資を左右されない。」

 

 そして、その実例として、スペインの共同組合や、日本での介護・保育、林業などの分野での活動などが紹介されている。

 さらに、こうしたコモンの領域、活動範囲が広がれば、「使用価値」は減らないが、資本による商品化された領域が減り、GDPは減少していくだろう。脱成長である、と言う。

 

 しかし、資本はそれまで待ってくれるだろうか。気になる点が2つある。

 1つは、利益がでる事業や利益のでそうな事業は、資本が手放さないし、資本が放っておく訳がない、と思うのだ。

 現在あるワーカーズ・コープは、資本としてのやり方としては旨みのない事業分野が中心ではないだろうか。

 2つ目としては、ワーカーズ・コープも資本主義経済で事業をやる以上、当然利潤を上げなければ存続できない。

 このことは著者も触れているが、もし、この事業を広め、または拡大することを目指せば、ミイラ取りがミイラになってしまうのではないか・・・と危惧するのだ。

 

 つまり、社会の大部分が、脱成長を受入れ、資本主義から決別する途を決意しなければ、ワーカーズ・コープなどの活動も広がらないだろう。

 そこで著者は、地球環境を守る、特に地球温暖化を阻止する「気候正義」を梃子として、この脱成長とそのための資本主義からコミュニズムへの経済モデル変化を促すことを期待し、経済・政治・環境の三位一体の刷新をこう訴えている。

 

「民主主義の刷新はかつてないほど重要になっている。気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせないからである。

その際、専門家や政治家たちのトップダウン型の統治形態に陥らないようにするためには、市民参加の主体性を育み、市民の意見が国家に反映されるプロセスを制度化していくことが欠かせない。

そのためには、国家の力を前提にしながらも、<コモン>の領域を広げていくことによって、民主主義の議会を外に広げ、生産の次元へと拡張していく必要がある。協同組合、社会的所有や「<市民>営化」がその一例だ・・・」

 

 <停止状態>を望んだJ・S・ミルは、人々の公益への意識、欲望への抑制意識に期待した。

 それに比べれば、著者の提言ははるかに具体的だが・・・

 私も、著者の求める社会に大賛成であるが・・・

 

 つぎのことをどうすすめたらいいか、考えねばならない。

・著者も危惧しているように、資本は気候変動の危機でさえも、利潤追求の機会ととらえるだろう。

このコミュニズムへの動きに、資本の「価値」増殖の動きをすすめたり、利益を得ている人たちは同調できるのだろうか。どう納得、あるいは諦めてもらうか。

かえって、市民に対して積極的な宣伝活動を展開し、市民の意見がまとまらないようになるのを、どう防ぐか。

・市民(私も含めて)は主人公、市民の意見こそ正しい、と市民を信頼、信用されても困る人々は大勢いるのではないだろうか。

 困って、考えるのも嫌になったとき、カリスマを求めるのも市民だ。

 多くの市民(私も含めて)は、<曖昧さ>に堪えられない。白黒はっきり付けたいのだ。 強いリーダーを望んだり、一方で嫌なものは嫌と譲らなかったりと、市民が主人公になった時の困難さが気を重くする。

 妥協の途を根気よく巡っていく力は、残念ながら政治家が訓練されている。これも残念だが、野党より自民党がそうだ。

 かつての民主党政権のとき、すごく期待したが、落胆度もひどかった。党内で妥協できずまとまらなかったからだ。

 自民党の隠蔽体質は大嫌いだが、党内で妥協調整してまとめる力は強い。一度決まれば反対意見を封じ込める。そのまとめ方に批判もあるが・・・ところで市民が参加するとして自民党以上に正しく、誰でも納得するまとめ方ができるか・・・途は遠い。

 

 もしかすると、脱成長コミュニズム、または<定常状態>になるためには、J・S・ミルではないが、何かみんなが受け入れる価値観、信仰に近い考えがいる??

 資本主義をすすめたプロテスタンティズムのような・・・