曖昧さに耐える

<東京都の小池知事は、何の対策も打っていない。あの人は危機管理ができない人だ>

 

 これは、羽鳥モーニングショーの玉川氏の発言である。

 よくぞ言った!と言うところだが、

 <今の日本は、リーダーの違いで対策に格差が生じている>

とも言っていた。

 たしかに、危機に際して、どんなリーダーを選んでいるかが、各都道府県、政府などその差が顕著に出ている。

 しかし、どちらかといえば、菅総理への歯がゆさからきたコメントとも取れた。

 

  それにしても、

 菅総理も人気がない。

 発言に真剣味がない、胸に届かない。ただ、文章を読んでいるだけだ。などなど・・・

 散々である。

 特にドイツのメルケル首相と比べられて、気の毒になるほどである。

 菅さんは、ああいう人物だ。彼に熱いメッセージを望むのは、無いものねだりである。

 というより、彼が熱く語るところを見たいか、というと、見たくないような・・・

 彼の良い面は違うところにあることは、国民の多くもわかっている。

 あの安倍前総理を支えた頃の官房長官の菅さんは輝いていた。あの熱くない語り口、それがよかった。

 

 基本的に、経験のない危機に面してアタフタとする日本の政治を

 これで良い、と思っている。

 無いものねだりをする国民に対して、リーダーがアタフタと何とか応えようとする姿は、とても健全だと思っている。

 

 それよりも

 なぜ、菅総理が熱く語る姿を見たくないか・・・

 菅さんが、無いものねだりをする国民に対して

 あたかも持っているかのごとく、熱く語り出した時が

 本当の危機である。

 

 いろいろなリーダーがいる。それこそが議会制民主主義の具体的な姿だ。

 当然、危機に面して、リーダーによって対応に格差がでる。

 それでいいのだ。

 われわれは、そうしたリーダーの姿を見ながら、もどかしい曖昧な対応に怒りを持つが、この曖昧さに付き合うことこそ

民主主義の倫理的根幹である。

 

 いろいろな立場や事情がある。事実の情報も多様である。民主政治だからこそその対応に曖昧さが内包されるのは仕方がないことなのだ。

 曖昧さに耐えられず、白黒を要求した時、われわれは主権者の立場を放棄した時である。

 政策に曖昧さを求め、政策の曖昧さに耐えるとは、主権者としての権利であり、義務である。