こんな社会にするためには・・・どうすれば?

『経済学の堕落を撃つ』(中山智香子 著)を読んでいたら、こんな文があった。

以下抜粋。

「J・S・ミルは『経済学原理』において、産業的進歩と蓄積の時代の後に到来する「定常状態」を非常に肯定的にとらえていた。

定常状態においては、誰も生存競争のために他人を蹴落としたりせず、誰かが貧困に陥ることもなく、また誰も、一生かかっても使い切れないほどの富をため込むこともない。誰もが現状、得られている快適さを保ち、それが劣化しないようにしっかりと暮らしていく。・・・そこでは過剰に慎重な節約を行う必要を求められないので、誰も巨万の富をもってないが、精神にも身体にも十分な楽しみを誰もが享受することができる。したがって定常状態においても人々は、質的な向上を求めてよい。さまざまな精神的文化の発展や生活の技法の改善、今日の言葉で言うならクオリティ・オブ・ライフ、つまり暮らしの質の向上は、大いに求められてよいとしたのである。」

 

 いわゆる<社会主義の夢>が崩壊してから、ちょうど30年になる。―いや、崩壊したのはソ連式の社会主義であって、<社会主義あるいは共産主義の夢>は生きている、という人もいるが・・・

 30年たって、これだけは言える。

 「資本主義は限界ではないだろうか。」と考える人が、増えていることだ。

 私もその一人だ。

 では、「資本主義でない、次の社会とは、どんな社会?」と問われると、困ってしまうのが現状であった。

 しかし、J・S・ミルが言う「定常状態」の社会はいい。

 <社会主義共産主義>社会とは云々~、と言われるよりイメージしやすい。

 

 この「定常状態」の社会を目指すにはどうしたいいのだろう。

 少なくとも経済成長を求める経済システムはやめなければならない。では、資本主義経済のまま、これが実現できるのだろうか。

 資本主義経済は、あらゆるものが商品として取り引きされ、資本のもとで生産と販売が利潤追求のためになされる経済活動が主流となっている状態である。

 資本は利益拡大のために運動する。利益拡大を求めないとしたら、それは資本ではない。

 としたら、資本主義経済は、経済成長を求めることをやめられない。

 

 また、「誰も生存競争のために他人を蹴落としたりせず、誰かが貧困に陥ることもなく・・・」とあるが、

 現在の世界の食料生産は、世界の人口を支えるだけの生産量があるらしい。理屈でいけば、平等に食料を供給すれば、「生存競争のために他人を蹴落としたりせず」にすむはずである。

 食料の供給が偏っているのである。

 そのような供給システムとして、結果的に意識的に、多くは無意識に形成してきてしまった。

 わかるように、日本では「デカ盛り」が話題になるほど食料が供給され、にもかかわらず、「食品ロス」が叫ばれ、一方ではアフリカのサヘル地域をはじめ、8億人ほどがぎりぎりの栄養状態にある。

 人間社会の分業が進みすぎているのだ。内部では共同体を解体するほど進み、外部では世界を覆うほど進んでいる。

 おかげで、あらゆるものを購入しなければならない。としたら、金持ちに商品が集中するのは目に見えている。

 この分業システムをどうすればいいのか。いまさら後に戻ることは難しい。世界的に展開された分業システムを誰がつくったか。

 先進国を中心とした巨大資本だ。そして、巨大資本に利益を提供している我々の生活スタイルだ。

 資本は、この分業システムを駆使して、利益を追求する。そして、利益を得られそうな所に商品は集中し、そうでない所では、不足する。

 

 分業はなくした方がいいのだろうか。しかし、人間はみんなで活動するとき、いやでも分業をする。

 やはり、資本主義の問題だ。

 

そうだと言えるが、その後が続かない。